今朝の天気は週間予報で曇りか雨か微妙なところだったが、金曜日の午後になって降水率100%に確定。

実際、雨降ってフットサル中止。結局、1月は1日(2コマだったが)しかフットサルしてない。

雨は昼に上がって、太陽が見えたりも。腹立たしいので、見なかった事にする。

家にこもって録画テレビばかり観ていたが、大江麻理子がストライクゾーン真ん中であると確信する。数年前から好みの芸能人というのが特に無くて答えるのに困っていたが、今度から大江さんと答えることにしよう。

面白いと思ってないのに暇だとついつい観てしまう(ただし1.5倍速で)のが、カンゴ・ロンゴ。なぜだろうか。
下流志向の中学生の話で、何故人は生きるんでしょうか、と悩んでいるのだが、そんなもの遺伝子が生き延びるために決まってんだろ、と説得力ゼロな突っ込みを入れる。
最近どうも、世の中を自分とその他の事象、みたいに考えつつあり、自分の意識というのも自分の遺伝子が操っていて、意識自体に主体はないのではとすら考えつつある。
もともと共感力は薄かった方だが、最近になって症状が進行している気がする。
でも、どうでもいい三文ドラマで涙したりもする。

ちなみに下流志向については、知っている若者たちを通して、同様の感想を持っている。自分が関わる共同体に対する責任意識さえあれば、過度に金とか権力とかに執着してないのは悪いことではないと思う。
責任意識だけは持っていて欲しいな。

夜、和食を食べに外出。加齢とともに味覚がシルバー志向になっているのか、トラッドな和食屋にたまに行く。
静かな店で、周りの会話などが勝手に聴こえてくる。隣の席のおじさんが、わりと自分と似てる観点から世界について語っていた。
おじさんは話題が豊富でためになる話を聞けることがあるが、その分思考が硬化しているというか会話に遊びがなくて疲れるので、
(会話が発展せずに、おじさんの言いたいことを一方的に聞かされて終わることが多いのだ)
関係ない立場から勝手に聴いてるというのはお得な感じがする。

喫煙席だったので服や髪がヤニ臭くなってやだなと思ってたら、遠くの席の母娘連れ、娘の方が露骨に文句を言っていて、近くの喫煙おじさん2人組が言い訳のようなことを言っていた。
食事は終わっていたのだが、面白いので観察していたら、店員が気を利かせて母娘連れは禁煙席的なところへ行ってしまい、あっけない幕切れ。

帰り、本屋に寄ったが欲しいものはことごとくなかったので、Amazonで注文。

1月最終日は、そんな一日。

コメント

nophoto
Salva
2009年2月1日18:22

下流志向、というか、どんだけ金使わないで楽しく過ごせるか、とかは考えますね。それで弁当、とか。

相変わらす映画とか舞台とかライヴは観たいので、それには金、かかるけど。
でも、取り合えず、金のかからないシュミというか気分転換とか、犬の散歩ついでに撮ってきた花の絵、描くとか。おっさん臭くなるけど(要するに気持ちの問題ですね)。

でも、時代遅れのドーキンスみたいな考え方、止めようよ(笑)←遺伝子。

セック鈴木
2009年2月1日18:43

>Salvaさん
話はそれますが、1982年にリベットという人が行った実験によると、ある神経細胞の電気の溜まり方によって行動が決定→意志が生まれる→行動
という順番で物事が進むのだそうで、科学的な観点からは自由意志というものはないのだそうです。

「利己的な遺伝子」の人は時代遅れなんですか?

nophoto
Salva
2009年2月7日1:28

と、思うぞ。もう聞かないもんな。
まあ、発表されて一時期もてはやされたころから批判が多かったのは確かだが、どんな理論も、そういうとこありますね。


まあ私的あまり興味深いとも思えない話。

現実生きてれば、そんな考え方、無意味だもん。
そう考えたところで、生きてるもろもろには何も影響がない。
遺伝子のせいに出来るだけで。
(私の好きなキュルケゴールだってスピノザだってもっと
今の現実味に近いものに根ざしたところから哲学している
と思う)
と、逸れた、哲学とは別に脳の話は私は好きで池谷裕二とか
よく読むのだけど、脳の仕組みが科学的に説明できるように
なっても、それを理解する脳(というか意識とか意思でも
いいけど)がその「外側」に常にある(理解する意識は、
理解する対象に含まれていない)ので、私らが現実に強く
感じる「意思」とか「意識」の悩みが消えるわけじゃぁ、ない、
と、そういうふうに思いますね。
こういうのは構造主義の矛盾をちょっと思い出させる。
構造主義といのは突き詰めると神秘主義にしかいかない、という話が
あって(かなり乱暴な議論だけど)。→ラストに。


ドーキンスの理論で、
いちばん変な誤解を生んだのは、遺伝子にじゃあ、「利己的」
などと言えるような、「意思」があるか、ということ。
あるはずがない。ある意味、意思なんてないからすごいので。
その、神経細胞の電気の溜まり方→意思、というときの意思と、
普段私たちが考える「意思」には、相当遠い隔たりがあります。
だから、こういう物理説明に「意思」、という言葉を当てはめる
のはどうか、と。
(リベットの実験ってどんなだっけ、と調べてたら、見つけた・・・
たぶん、この人の考え方に近い。
http://blogs.yahoo.co.jp/kannkeisyorui/44890395.html
や、熟読はしてないから微妙だけど)


遺伝子にしてもこういうのはちょっと神秘主義とかと同じで。
自分を超越したものに根本を預けてしまう、というのは
人生の考え方としてズルだと思うの。
(あ、セックの考えにもろ批判になったか?)
ただ、そう考えると三文ドラマに涙出来る、っていうのが
面白いけど。

セック鈴木
2009年2月7日14:56

>Salvaさん
ふむふむ、なるほど。
遺伝子をご本尊に抱いた一神教的な考え方をしていると読み取られてしまったようですかね(日記なので、わりと適当に書きなぐっており)
そういう意味だと多神教のよりどころの一つが遺伝子っていうか。
(高いところの木の芽が食べたいからって何百年以上もかけてキリンの首が伸びるとかって、なんだか遺伝子ってすごくね?と畏敬の対象でもあります。)

自然の豊かなところでは人間の力が及ばないような自然の驚異について、神のなせる業だからしょうがないじゃんみたいに多神教で説明する文化が昔からあると思いますが、自分の場合腑に落ちた科学理論の数々が、自分のコントロールの及ばないところの説明として納得がいくって感じです。

なんで生きて家庭を持って子供育てたりしなきゃいけないの、って悩みがあったとしたら、自分の回答は、人間は大昔からそういう(設計情報を遺伝子に持った)生物としてやってきてるんだから、そのへんは理屈じゃねえんだよ
(で、理屈じゃないことで悩んでる暇あったら他のことで楽しめばいいじゃない)
という感じになってしまうのです。
(そういうのもずるい考え方になってしまうかな。。)

自分や自分に似てる人、そういう人が生きる環境を守ろうとする、民族主義みたいな働きは遺伝子レベルで決まってる生物としての習性だって考えると自分としては腑に落ちるし、
S尾が、永久にメンバーが同じってわけでもないあるチーム(浦和とかFC東京とかね)を応援する意味がわからない、っていうのですが、それもそういう働きの擬似行為だと考えると自分は納得がいくんですよね。

nophoto
Salva
2009年2月7日23:42

そうね、遺伝子によってキリンの首が伸びた(正確には私はあまり科学理論ハードなことはわからないんだけど)というのは、「意思」の凄さ、という感じがしないのね。遺伝子は意思なんてないのがすごい、とか書いたけど。
もっとメカニカル(?)な感じ。「利己的な(selfish)」という言葉がいけないんだと、思う。
selfとか、孤立して働くナニカ(私らの普通の意識、がそうなのだと思うけど)じゃない存在、要するにあくまでもモノだと思う、遺伝子は。それを孤立して働く意識(他と自分を区別する意識)の鏡像のようにして遺伝子であろうと何であろうと考えるから、一神教というか、神さま(神秘主義)になっちゃうような。
「他と自分を区別する」というのでは説得力がないのかな。遺伝子の設計情報というのがあまりリアリティ持てないというか、要するに知識不足なのだけど。
利己的な遺伝子というのについての誤解には、ドーキンス自身が触れているらしい。
「利己的遺伝子とは比喩表現であり、次のような物ではない。
利己的遺伝子論は遺伝決定論や還元主義ではない。
利己的遺伝子論は遺伝子が意思を持って振る舞うと言う意味ではない。
利己的遺伝子論は生物個体の振る舞いが常に利己的だという意味ではない
利己的遺伝子論は遺伝子だけが価値ある物で、生物個体は無価値だと言う意味ではない」
「」内はwiki。なので、ドーキンスが書いたままではないみたいだけど。

キリンの首が伸びたのも、遺伝子にそう設計図があった、という話ではなないやな。wikiに例として出ていたけど、犬が人になつく、ということ→「イヌは人為選択の末、人になつきやすい性質を発達させてきた。おそらくなつきやすさを決める単一の遺伝子など存在しないが、それでも「なつきやすさ」は選択の対象となりうる。」ということになる。

思うに、遺伝子レベルの要因から始まって、種の違いと言ったレベルの要因、人間の社会的なことのレベルの要因とか、すべて含めて、固体は動いているので…。


ちょっとしつこいみたいだけど、「なんで生きて家庭を持って子供育てたりしなきゃいけないの」っていう疑問も、「民族主義」の問題も、遺伝子であれ、神であれ、超越的なものに任せるべきじゃないと思う。というか少なくとも私は任せたくない、というところで、たぶん、セックと私とで大きく差が出ているところで。

「自分のコントロールの及ばないところ」っていうのもさまざまなレベルがあって言っていると思うので、筋違いがあるかも知れないけど、私は思うに、人生、その「コントロールの及ばない」ところにどうやって挑むか、にあると思うわけだ。

「家庭」については理屈じゃねぇ、じゃなくて理屈を持ちたい、と。
「民族問題」については、その弊害を「習性」のせいにしちゃいけない、と。

シニシスムに陥るのがいちばん、イヤなの。
快楽主義的ではあると思うけど、遺伝子のおかげや神のおかげで快楽(あんまり、エピキュリアン的な意味ではなくして、幸福、みたいなことでもいいけど)があるな、気持ち良いな、とは思いたくない、と。

まあそんな感じであります(あんまり前の書き込みと変わってない?)。

セック鈴木
2009年2月8日1:34

>Salvaさん

>「他と自分を区別する」というのでは説得力がないのかな。

中年にもなると体力の減退とともに興味をそそぐ対象(=自分が望むような状態でありたいもの)もあまり広げられなくなるわけですが、たとえば身体制御だとかプログラミング技術の習得などに比べると、不確定要素の多い、「自分の望むような他人との関係の確立」というのは費用対効果が低いものとして興味が薄れてきて、自分としてはコントロール外の現象と分類して興味の対象外のものとして認識されてしまうのです。

それでもって世の中いろいろ理不尽に思えることはありますが、もともとそのようなものだと思えば腑に落ちないこともなく。

いろいろを転嫁して世の中自分の思うようになることは少ないと思ったうえで生きていくと、ちょっとでもいいことがあるとプラスに思えて精神衛生の面で楽なところがよいなと思ってそのように考えており、まあシニシズムだと思います。

Salvaさんのように万事真剣に考える方が、正しいことだと思います。

nophoto
Salva
2009年2月9日14:19

真剣に考えすぎてはポッきり折れ、真剣に考えすぎては落ち込み、
真剣に考えすぎてはキレたりして・・・でも、ここは治らないみたいです。
しょうがない。

頑張る!!

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